講話者:森田忠信氏(防衛大学校第7期。当時、航空自衛隊幹部学校教育部第3教官室長)
所感:福江広明(指揮幕僚課程第39期)
■第2話に想う(記 福江広明)
CS1次試験の準備段階から、「問題の所在」を明らかにすることに四苦八苦し、課程修学中にあっても教官から『本質は何なんだ』と再三詰問された。空幕勤務時、戦略・事業計画の策定や政策検討等にあたっての説明では、上司から『一枚の絵にしてみろ』『一枚紙にまとめろ』『英語に置き換えたらどうなる』等、本質を捉えきれていないが故の指摘は数知れず。
本質を把握しようと地道に経験を積み重ねてきたつもりだが、いまだに修得の実感はない。今回あらためて恩師の言葉に触れて、引き続き「何が問題かが問題だ」を常に念頭に置き、社会事象等を「より簡明」に表現できる力を培っていきたい。
■第2話「本質」
「本質」という言葉ほど、諸君に身近な言葉はあるまい。CSCの受検勉強を始めるころから、問題の本質を把握して解答せよと指導を受け、模擬試験の答案には、朱書で本質をついていないと注意されたことがあろう。CSCに入校後は、事あるごとに、本質の追求が要求されている。これほどに重要なものにもかかわらず、本質の本質について、私自身CSCを卒業しても永らくそれを、明確に自覚したことはなかった。私の勉強不足、思慮不足もさることながら、その本質というものを具体的に解いていただいた記憶がないのも確かなことであった。
11年程前、法律書の折り込み解説書を、忘れもしない西武線の中で読んでいるとき、所沢の近くで「本質は、自然物においてはその存在にあり、又、人造物においては、その目的に存する。」という一行に出会って、「これだ。」と心の中で叫んだのを思い出す。以来、この言葉を詮索しつづけて来た。現在までに行きついた所を諸君に伝えたい。
第1のカテゴリーに属するものに、自然物がある。リンゴは、どこから見てもリンゴであり、その皮を剥いても、半分に切ってもリンゴである。百合の花は、聖書にもあるように、野の百合に人間は指一本の変化も与えることのできない神の遺物である。したがって、自然物はそのあるがままで本質そのものである。つまりは、神の創ったものは、その被造物自体が本質そのものなのである。しかし、ここに一つの難しい自然物がある。人である。人の存在は何かという問いの領域には、ここでは立ち入らない。それは古来、哲学・倫理・宗教の分野に属するテーマであり、私にとっても、諸君にとっても未だ未踏の世界が無限に拡がる。
問題は、第2のカテゴリーの本質である。即ち人が造ったものの本質は、その目的に存するというテーゼである。
形のあるものの証明は、明瞭である。自転車の本質は何かと問われれば、人が人力で走らせるために造った器械であり、たとえ車輪が一つでも、二つでも三つでも、又、2人乗り・3人乗りでも自転車は自転車である。
しかし、人が造ったものでも、形がはっきりしないものとなるとだんだん本質が見えなくなる。例えば、自衛隊というものの本質をみよう。自衛隊の本質はその目的に存するというのが、私の提案である。自衛隊の目的は何かと問えば、諸君はすぐ自衛隊法の第3条自衛隊の任務を思い出すだろうし、それは防衛庁設置法第4条防衛庁の設置の目的をうけたもので、「わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つことを目的とする。」ところに本質がある。これと同様に、組織は、その規約に定める組織体設置の目的にその本質が存するのである。この辺までは、頭で理解できるが、これが、ごく身近の事となるとさらに見えなくなる。例えば、今諸君が学ぶCSCの本質は何か、何のために君はCSに入校を希望するのか、その目的は何か。などとなると答えは曖昧になるだろう。CSC入校の諸君も必ずや一度はこの問いに答える必要がある。
本質については、一応、輪郭が掴めたとしても、さらにやっかいな社会事象の本質をつかむという問題が残る。社会事象の本質の把握の課題が私にとっては、切迫したテーマであった。11年程前というのは、私がポーランドへ防衛駐在官として赴任する前のことだったのである。ポーランドで起こっている連帯運動というものをどうとらえるかという難題であった。
これからのポーランド情勢、世界情勢の本質を如何にとらえるかは、防衛駐在官としての正念場の課題であった。本質はその目的に存するという人造物の場合と違い、社会事象の本質の把握の方法論について、ヒントが、前に述べたパンフレットの中につづいて書かれていた。即ち学問は仮説を立てそれを検討することであるというのである。学問を本質に置き換えることができるのではないかと考えた。本質は仮定し、それを検証し、さらに再仮定するという作業のうちに見えてくるものではないか。これは、正・反・合を繰り返すスパイラル状の弁証法的発展が、社会事象の本質をとらえる道程であり、より検証された仮定が、社会事象における本質であろうと考えた。この結論は、今も変わっていない。この方法論をもってポーランドに渡った。それ以後に起こった連帯運動、戒厳令の発令等の問題をこの手段により見て来た。
私がとった方法論のうち、一番重要だと考えるのは、如何に仮定するかである。この仮定の要訣は「一言で言うと」何かである。本質は、真実という言葉で置き換えられる。真実は、単純明快なものである。複雑怪奇なるものは真実に遠いというのが私の結論である。英語的に表現すると、「The simpler, the better」とでも言えよう。あのThe比較級、the比較級の構文である。より簡明に定義してみることである。
社会事象の本質の把握には、トレーニングが必要である。情勢の見方については、別の機会に譲るが、トレーニングの方法としては、例え話で置き換える方法と、人間の機能でシミュレーションをしてみる方法を勧めたい。
最後に、本質の把握の前提となる問題の所在を明確にする作業がある。古来何が問題であるかが明らかになったとき、問題は問題ではなくなると言われる。
諸君と同じ立場にあるパリのフランス陸軍大学の門には、「何が問題かが問題だ。」と書かれていると聞いた。私もそれを確認する機会を逸したが、その意義は理解できる。諸君もこの門から入って本質の追求に当たってほしい。